「臨界期」でことばの発達について調べているうちに疑問がわきました。赤ちゃんの脳は、日本語や英語をどうやって聞いて覚えていくんでしょう。
想像ですが、たくさんの音の中から、音のかたまりとして受け取ったことばをどこかに蓄積し、一緒に得た視覚、嗅覚、触覚などの情報と照らし合わせてことばの意味を類推。ことばの音と概念を結びつけていく。そういう作業をこつこつやっているのかなと思います。統計分析と暗号解読を一緒にやっているような、すごく大変なことですよね。今、赤ちゃんと同じことをやってみろと言われても、絶対にできない……。
まだまだわからないことばかりの脳の中身。赤ちゃんがどうやって「日本語」や「英語」を覚えていくのか、脳の仕組みについて少し調べてみました。
日本語を成立させている音の数は?
世界中の言語を合わせると、約600の子音と約200の母音があるそうです。日本語はいくつの音から成り立っているのでしょうか。日本語の母音は「あいうえお」の5つですね。ヤ行とワ行に使われている音は、単独では音になれないので子音っぽいのですが、音の出し方や「キャ」のように子音につくところなどが母音にも似ているので、半母音と呼ばれます。これが2つ。じゃあ子音の数は?
調べてみるといろいろな数え方がありました。日本語で話すとき、私達は意識していませんが、音節の頭とか中間とか、直後にどんな音がつくかなどで、同じ音のつもりでも微妙に発音を変えているのです。それをどこまで細かく分けるかで、子音の数は変わります。ここに方言もいれると、さらにややこしいことになります。
比較的シンプルな例では、子音の数が13。それに特殊音素とかモーラ音素(参考1)などと呼ばれる長音、発音、拗音で3つという数えかたがありました。母音、半母音もすべて合わせると合計23。赤ちゃんの脳が日本語を聞きとるためには、この23個とさらに微妙に違う音、そして方言で使う音、それぞれを区別することができる能力が必要です。
生後6~8カ月までは「r」と「l」が聞き分けられる
赤ちゃんがいつごろから母語の聞き取りができるのか、それを明らかにしようとしたのはアメリカの発達心理学者パトリシア・キュール氏です。お茶の水女子大学の榊原洋一教授の文章を参考に紹介します。
キュール氏はアメリカ人や日本人の赤ちゃんを対象に、音に対する赤ちゃんの反応をテストしました。この実験では、吸うと「あ」のように、ことばの音がスピーカーからでる仕掛けの乳首か使われています。乳首を吸って音を出していた赤ちゃんは、同じ音が続くと、しだいに飽きて強く吸わなくなります。そこで違う音を聞かせると、音の違いに気づいた赤ちゃんは反応し、再び乳首を強く吸うのです。この反応の有無を見て、赤ちゃんが聞かせた音の違いを聞き分けられたかどうかを判定します。
その結果、日本人の赤ちゃんも生後6~8カ月までは「r」と「l」の聞き分けができていたのに、生後10カ月になると聞き分けられなくなることがわかりました。アメリカ人の赤ちゃんには、英語にないスペイン語特有の「b」と「p」の中間の子音を聞かせてみたところ、やはり生後10カ月になると聞き取れなくなるという結果が出たそうです。
赤ちゃんにはもともと世界中のことばの音、200の母音と600の子音を聞き分ける力があって生まれてきます。周りの人の発音を聞き、母語を習得していく過程で、母語で区別する必要のない音の差は無視し、母語で重要な発音の差に対しては敏感になってくると考えられます。キュール氏は、このような人の乳児の脳には「計算(computational)機能」があり、聞こえた語音を、「統計学的に」学習すると表現しているそうです。
キュール氏の実験では、フランス語と英語のバイリンガル環境で育った子どもの場合は、生後20カ月になっても両方の言語の聞き取り能力が保たれていることもわかりました。しかし、別の研究では母語以外の外国語の感受性が残っている乳児の場合、母語の獲得が遅くなることも判明しています。外国語に鈍感になることが、母語の獲得には必要とされるようです。
また、生後9カ月の赤ちゃんたちに、中国語の読み聞かせをした実験を行ったところ、直接保育士が聞かせたほうが、同じ保育士を撮影したビデオを見せるより、ずっとことばの覚え方がよかったそうです。この結果から、榊原教授はつぎのように語っています。
言語学習には、言葉をしゃべる他人との生の社会的接触が重要なのである。
赤ちゃんに英語のビデオやCDを聞かせただけでは、話せるようにはならないということのようですね。
新生児から始まる音韻記憶
どんな言語も聞き取れる能力を持って生まれてきた赤ちゃん。生まれてすぐでも、ことばを聞いて、ほかの生活音との区別をしているのでしょうか。
近赤外線分光法(参考2)を使って、新生児のことばへの反応を調べた研究がありました。研究者は心とことばの発達を専門とする慶應義塾大学の皆川泰代准教授。慶應義塾大学「赤ちゃんラボ」のプレスリリースから、研究内容を紹介します。
実験の内容は、平均生後5日の新生児に、「行った」を繰り返し聞かせたあと、「行って(音韻の母音変化)」、「行った?(抑揚の変化)」を聞かせて、前頭部、側頭部の脳反応を調べたものです。
一般的に右ききの成人は、音楽や言語の抑揚、アクセントなどを右半球の聴覚野優位に処理し、母音や子音の音韻の違いは左半球の左聴覚野優位に処理しています。(脳の右半球は抑揚からことばにこめられた感情をつかむ働き、左半球ではことばの意味や内容を理解する働きをしていると言われています。)
新生児に抑揚の違うことば「行った?」を聞かせたところ、成人と同じく右半球の脳の活動がさかんになりました。「行った?」ということばの抑揚の情報をとらえて、大人と同じように右半球で処理していると考えられます。
音韻の母音を変化させた「行って」は、左半球優位に処理する成人とは違って、左右の差ははっきりしませんでした。しかし、成人の左半球にある音韻記憶に関わっている部位と同じところには、強い反応がみられました。新生児のころから、音韻記憶に関する機能をこの左半球の部位が担っていると考えられます。
生まれてすぐの赤ちゃんでも、ことばの音を生活音とは別にちゃんと「ことば」と識別できるということですね。ことばから情報をつかもうとする仕組みやことばの記憶はすでに始まっているようです。
生後4カ月で脳は「日本語」版に
皆川准教授は、生後4カ月の赤ちゃんを対象にした研究も行っています。生後4カ月の赤ちゃんに、日本語(母語)、英語、笑い声や泣き声などの情動音声、サルのコール(快・不快の感情を仲間に伝える音声)、ほかの4種の音と同じ音響成分を持つスクランブル合成音を聞かせて、脳のどこの部分の活動が活発に働くかを調べたものです。
笑い声や泣き声などの情動音を聞かせたときは、右半球の活動が活発になりました。もっとも左半球が活発な反応を示したのは日本語を聞かせたとき。英語を聞かせたときも左半球の活動が活発ですが、日本語のときとは差がありました。合成音は左脳で処理していますが、ほかの音よりも反応が鈍いようです。サルのコールは左右どちらの脳でも反応がみられました。
生後4カ月になると、左右の脳の使い分け方が大人に近づき、とくに日本語への反応が強いことがわかりました。この時期は、サルのコールにも強く反応するなど、音に対する柔軟性がかなり残っています。また、日本語のほうが外国語よりも強い反応が見られるようになっています。
プレスリリースではこの結果を下記のようにまとめてありました。
4 ヶ月時でより母国語に対する脳活動が強くなることが示されました。このことは日本語の入力を4 ヶ月受け続けることで日本語を受容するのに適した脳内回路が形成されている可能性を示します。
生後4カ月で、脳は「日本語版」へとカスタマイズが始まっているようですね。
1才1カ月で日本語の特徴を認識
もうひとつ、皆川准教授の研究を紹介します。日本語がもつ音韻の特徴に注目し、赤ちゃんが日本語を理解していく過程の一部を明らかにしたものです。
日本語には、前の音の母音を1拍分長く伸ばす発音があります。モーラ音素とされる長音です。ひらがな表記では「おかあさん」「おとうさん」のように、前の音の母音を重ねて書いて表現しますね。「角(かど)」と「華道(かどう)」のように、母音の長短で違う意味の単語があるのは日本語特有らしく、外国人にはこの聞き分けが難しいそうです。
日本語環境で育った赤ちゃんは、生後6~7カ月ごろになると、言語的に意味のある長・短母音の違いに気づき、左右の聴覚野で活発な反応を示すようになるそうです。しかし、生後10~11カ月になると一旦、その反応は消失します。1才1カ月以降はまた活発な反応を示すようになりますが、このときは左半球の特定の部位に強い反応が見られるようになります。この結果をどうとらえたらいいのか、プレスリリースの文から引用します。
総合的に解釈すると、日本語特有の長短の母音の区別は、生まれてすぐに区別できるほかの一般的な音韻と異なり、日本語環境で育つことで生後数ヶ月して発達しますが、この最初の脳反応は左右差がなく、聴覚系の一般的な音を区別する機構が発達したものと考えられます。満1歳頃に長短母音の区別が本格的な言語機能に組み込まれるに際して、それまで使われていた非特異的な神経機構が一旦停止されて、新たに左に側性化した言語音を専門に処理する神経機構に切り替わり、言語音が能率的に区別できるようになるものと考えられます。
まとめ
ここまでの流れをかしわば的にまとめてみます。
ヒトには世界共通のまっさらな言語習得プログラムが用意してあって、出生時には、広くことばの音を区別し、音韻記憶ができるように整えられています。生後4カ月ころには、聞き続けてきたことばから統計学的に母語の特徴をつかんで、外国語との区別がつくようになり、いわば母語版になっていく準備が整います。その後もしばらくは、いろいろな音への鋭敏さが保たれていますが、母語に特有な音を区別する能力もついてきます。生後10カ月ごろ、母語に特化したカスタマイズが完了する時期に、他の言語の音は区別ができなくなります。そして音として母語に特有な音を区別する力も一旦失われますが、1才過ぎには左脳の言語音を処理する箇所に、神経機構としてプラグインのように組み込まれます。ことばの理解がさらに効率的にできるようになります。この過程には、言葉をしゃべる人との社会的な接触が必要です。
生後4カ月は、あやすと笑うとか、話しかけられるとその方向を見るなど、コミュニケーションができるようになってきたと感じるころ。生後10カ月になると、ことばの意味がわかり始めて、「ちょうだい」などのやりとりができるようになったり、教えると「おつむてんてん」で頭をたたくなどの動作をするころです。「母語」の習得段階とコミュニケーション能力は連動しているところがあるんでしょうね。
長音、撥音、促音は、単独では1音節を構成しませんが、有無で違うことばに変わるため、音素とみなされています。
モーラ音素/特殊拍/特殊音素 日本語教師のページ
近赤外分光法は、近赤外光を照射して大脳皮質の血液中のヘモグロビンの酸素飽和度を測定し、大脳皮質の活動状況を調べる方法です。マッビング機能のあるNIRS脳計測装置を用います。
参考ページ
CHILD RESEARCH NET【脳と教育】第2回 乳児の言葉の学習と文字能力(前編)
【脳と教育】第3回 乳児の言葉の学習と文字能力(後編)~バイリンガルと乳児期の言語環境が後の言語発達に与える影響